前回の続きです。
カメハメハ5世が亡くなり、カメハメハ直系の王はいなくなりました。
前回も書きましたが、太平洋のど真ん中で生きていたハワイアンは、ヨソ者が入ってこない環境で生活してきたため、免疫がほとんどありません。移民たちが持ち込んだ軽い病気(例えば風邪とか)で、どんどん命を落としていきました。
カメハメハの家系の人々もどんどん減っていたため、初めて選挙が行われました。選挙といっても、一般人から選ぶのではありません。候補者は王族から選ばれ、カメハメハ1世の兄弟の子孫であるルナリロと、オアフ島の王位カラカウアが選挙で戦いました。その結果、ルナリロが王位を継ぐことになりました。
1873年、ルナリロ王即位。
ルナリロが王になった頃は、石油が見つかり、石油精製業がスタートした時代です。捕鯨で賑わっていた旧都マウイ島ラハイナはどんどん静かになっていました。
そして、このルナリロはアメリカ好きやったみたいです。カメハメハ4世も5世もイギリスのほうが好きでしたが、ルナリロが王になったとたん、アメリカ人が閣僚に入ります。アメリカと仲良くすることをいろいろ始めました。
ハワイの主力産業はサトウキビプランテーションに変わろうとしていました。が、安いハワイのサトウキビは、アメリカの製糖業者から敵視されます。アメリカはハワイと仲良くなろうとしていましたが、国内の製糖業者と世論を抑えるため、ハワイ産の砂糖に高い関税を課しはじめました。
ルナリロは、アメリカの高い関税を撤廃するために、パールハーバーをアメリカに貸すことを考えます。が、今度はハワイの人々や議会が反対し、実現しませんでした。
最終的には実現するのですが、ルナリロが王の時ではありません。ルナリロは、王位についてから1年ちょっとで亡くなってしまうからです。
ルナリロというと、カワイアハオ教会にお墓があることで紹介されることが多いです。カメハメハ一族と確執があったことで、ここにお墓がつくられたそうです。確執について簡単にご紹介させていただいてます▼
・カワイアハオ教会はハワイで一番古い教会なんですか?
ちなみに、王族のお墓はみな、ロイヤルモザリウムにあります▼
・Royal Mausoleum/ロイヤルモザリウムの中はどうなってるの?
※カメハメハ一世が亡くなった頃はまだキリスト教ではありませんでした。なので一世のお墓だけはここにはありません。謎のまま、不明のままです。
再びカラカウアが立候補します。この時、カメハメハ4世の奥さんエマ王妃も立候補しますが、選挙で勝ったのはカラカウアでした。1874年に7代目のハワイ国王になります。
カラカウア王は、ハワイ王国をいい国にするために、とにかく動き始めます。そして….
ルナリロがやろうとしていた「パールハーバーをアメリカに貸すこと」を実現させます。その代わりに、アメリカの高い関税を撤廃したのです。1875年のことでした。この時に条件として、「ハワイの領土は、アメリカ以外の他国に譲渡・貸与しない。特権も与えない」という約束をしたそうです。
ハワイのサトウキビはアメリカに買ってもらえるようになりました。サトウキビプランテーションのために、移民労働者を受け入れたい!
カラカウアは移民労働者を受け入れるために動き始めます。
1881年、カラカウアは来日して、国を動かしている人々と会います。あれ?伊藤博文は?と思われるかもしれませんが、この時はまだ総理大臣なんてものは存在していません。なんと総理大臣ができたのは1885年の12月です。
カラカウアは、日本からの移民労働者を受け入れるための交渉をします。この時、他にもいろいろ相談をしてるそうです▼
◼︎カラカウア王の姪カイウラニ王女を山階宮定麿親王と結婚させたい
◼︎日本とハワイを連邦にしたい
◼︎日本・ハワイ間の海底ケーブルをつくりたい
◼︎日本主導で「アジア連邦」をつくりたい
全て実現していませんが、移民労働者を受け入れることだけは決まりました。
1885年から日本から移民がどんどんやってくるようになります。これは、ハワイ島ラウパホエホエの「トレインミュージアム」にある労働者移民数の表です。1852年〜1909年までの移民数です。
※日本からは明治元年の移民からカウントされています▼
・ハワイ昔話09/カメハメハ5世
1885年にはもうひとつ書くべきことがあります。宣教師がやってきてから、ハワイではフラは禁止されていました。それをカラカウアが復活させたのです。
……つづく
<取材日:2019年10月18日>
facebookでコメントする